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君はインフルエンサーにマインドコントロールされてないか

先日金融日記をきっかけに手にとった本に示唆に富む内容を目にしたので備忘録的に残しておく。

村上春樹氏が『アンダーグラウンド』という地下鉄サリン事件の被害者にインタビューをした、書き下ろしノンフィクションだ。

 

最終章で村上氏は、衆議院選にでて選挙活動をするオウム真理教を目にしたとき、なぜ今までにはないほど異様なまでに嫌悪感、不気味さを感じたのかについて、次のような考察をしている。

 仮説はひとつある。それはオウム真理教という「ものごと」が実は、私にとってまったくの他人事ではなかったからではないか、ということだ。
(中略)
 いや、何も「私やあなただって、ちょっと事情が違ったら、オウム真理教に入って地下鉄にサリンを撒いたかもしれませんよ」と言っているわけではない。そんな状況は現実的に(ということは確率的に)ほとんどあり得ないことだからだ。私が言いたいのは、「私たちがわざわざ意識して排除しなくてはならないものが、ひょっとしてそこに含まれていたのではないか」ということだ。 

この"意識して排除しなくてはならないもの"はなにか。

村上氏はかつて全米を震撼させた連続爆弾魔ユナボマーことセオドア・カジンスキーがニューヨーク・タイムズに掲載させた論文の一節を引用してこう説明する。

「システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ」

 

 ここでキャジンスキーが述べていること自体は、基本的には正論であると思う。私たちを含んで機能している社会システムは多くの部分で、個人の自律的パワープロセス獲得を圧迫しようとする。私も多かれ少なかれそれを感じているし、おそらくあなたも多かれ少なかれそれを感じておられるに違いない。もっとざっくばらんに言えば、要するに「自分自身の価値を掲げて、自由な生き方をしたいと思っても、世間がなかなかそれを許してくれない」ということになる。
 そしてたとえばオウム真理教に帰依している信者たちの目から見れば、自分たちが自律的パワープロセスを獲得、確立しようとしているときに、社会や国家がそれを「反社会的行為」であると決めつけ、「病気」であると言ってそこから引きはがそうとするのは、間違ったことであり、まったく容認できないことである。だから彼らはますます反社会的傾向を深めることになる。

 しかしキャジンスキーが──意識的にか無意識的にか──見逃していることがひとつある。それは「個人の自律的パワープロセス」というものは本来的には「他律的パワープロセス」の合わせ鏡として生まれてきたものだということだ。極端に言い換えれば、前者は後者のひとつのリファレンスに過ぎないのだ。つまり孤島で生まれ、親に置き去りにされてひとりぼっちで育ちでもしない限り、発生的に純粋な「自律的パワープロセス」などというものはどこにも存在しない。だとすれば、その二つの力はしかるべきネゴシエーション(歩み寄り)を内包する関係にあるはずだ。それらは陰と陽のように自発的な引力で引かれ合って、しかるべき所定の位置を──おそらくは試行錯誤の末に──個人個人の世界認識の中に見出すはずのものなのだ。それを「自我の客体化」と呼ぶこともできる。それこそがつまりは、人生にとっての真のイニシエーションなのだ。その作業が達成できないのは、バランスのとれた自我のソフトな発達が、どこかの段階で、何かの理由で阻害されているからである。その阻害を棚上げして、「自律的パワープロセス」というハードな論理だけで乗り越えようとするときに、社会的論理と個人とのあいだに物理的(法律的)軋轢が生じることになる。

村上氏の考えをひらたくいうと、こういうことである。

・世の中には「自分にとって価値があること」(自我と言い換えてもいい)と「社会にとって価値があること」がある
・よりよく自分らしく生きるためには「自分にとって価値があること」が欠かせない
・ただ「自分にとって価値があること」は社会システムの中で生まれたものであり、この両者はリンクしており、コインの表と裏のような関係にある
・このコインの表と裏、すなわち「自分にとって価値があること」と「社会にとって価値があること」を繋げていくことこそ人生には必要(これを真のイニシエーションと呼んでいる)
・「自分にとって価値があること(ソフト面)」をそのままに「社会にとって価値があること(ハード面)」を越えようとすると、物理的な(法律的な)問題が起こる

 

続けて村上氏は、このソフト面をそのままにハード面を越えるために、オウム信者は彼らの自我を浅原彰晃の個人的な自我に同化させていたのではないかと指摘する。

 麻原彰晃の所有する「より巨大により深くバランスが損なわれた」個人的な自我に、自分の自我をそっくり同化させ連動させることによって、彼らは擬似自律的なパワープロセスを受け取ることができる。つまり「自律的パワープロセス対社会システム」という対立図式を、個人の力と戦略とで実行するのではなく、代理執行人としての麻原にそっくり全権委任するわけだ。
 彼らはキャジンスキーが定義するように、「自律的パワープロセスを獲得するために社会システムと果敢に戦っていた」わけではない。実際に戦っていたのは麻原彰晃ただ一人であり、多くの信者たちは闘いを欲する麻原彰晃の自我の中に呑み込まれ、それに同化していたのだ。そしてまた信者たちは一方的に麻原にマインド・コントロールされていたわけではない。純粋の受け身の被害者であったわけではない。彼ら自身、積極的に麻原にコントロールされることを求めていたのだ。マインド・コントロールとは求められるだけのものではないし、与えられるだけのものではない。それは「求められて、与えられる」相互的なものなのだ。

(中略)

あなたはその場合、他者から、自我を譲渡したその誰かから、新しい物語を受領することになる。実体を譲り渡したのだから、その代償として、影を与えられる──考えてみればまあ当然の成りゆきであるかもしれない。あなたの自我が他者の自我にいったん同化してしまえば、あなたの物語も、他者の自我の生み出す物語の文脈に同化せざるを得ないというわけだ。

 

麻原彰晃インフルエンサー、それを取り巻くフォロワーの類似性

僕はハッとした。

今でいうインフルエンサーもまったくもって同じ構造だからだ。

 

わかりやすくするために、恋愛工学やナンパ界隈が流行ったときのことを考えてみよう。

この界隈では、いわゆる"凄腕"と呼ばれるインフルエンサーが教祖的な影響力をもっている。

彼らは、美人とのゴール報告を通じて、とりまきの非モテフォロワーの欲求を刺激する。

当然男は例外なくたくさんの美人とたくさんセックスしたい生き物なので、ここに注意をひかれるわけだ。

そして、「モデルや女優のような誰もが羨む最上級の女をゲットしたい」、「もうこれ以上の子はどこにもいないといえる理想の彼女をみつけたい」といった価値観を刷り込まれる。

こうして気づかぬうちに他人の物語は自分の物語になっているのだ。

つまり、ここには「他の恋愛工学生やナンパ師が頑張っているからおれも頑張らないと!」のような自律的とはとてもいえない"自律的なパワープロセス"が生まれる。

 

もちろん新たな言語でも生み出さない限り、100%の自律的なパワープロセスなど存在しないことは重々承知している。

しかし、他者への物語に自我を同化させる度合いが強ければ強いほど、このクラスタは閉鎖的になり、価値観は画一化していく。

これがいわゆる一種の宗教やカルトというものなのである。

 

では自我を他人の自我に譲り渡した人たちが閉鎖的な空間に留まり続けるとどうなるか。

そう、この物語にいない他者を排除しようとするのだ。

この物語にいない他者とは広義の意味で社会システムのことだ。

こうして「自分にとって価値があること(ソフト面)」をそのままに「社会にとって価値があること(ハード面)」を乗り越えようとするのである。

 

悲劇を繰り返さないために僕らにできること  

確かにナンパができるようになり、モテるようになり、女が自分を必要としてくれると自我が満たされ、自律的なパワープロセスを獲得した"良い気持ち"になる。

使い古された表現をすれば、いわゆる"非日常"というやつだろう。

しかし、その一方で社会システムの中、すなわち日常はなにも変わっていないことに気づく。

毎日満員電車に乗り、意義を見出だせないルーティーンワークをこなし、毎月配給される給料を待つ、まったく自律的とは程遠いプロセスが"日常"にはある。

 

こうした自我と社会システムの歪みを、気持ちよく説明できる物語で消化させてくれるのがインフルエンサーという存在だ。

インフルエンサーに物語を譲り渡したフォロワーは、いつしかインフルエンサーの発信する情報は常に正しく、そこに違和感を感じた自分は間違っていて、まだまだ修行が足りない、こう思うようになる。

どこかオウム真理教麻原彰晃を崇拝する信者に似ている気がしないだろうか。

他人の物語に自我を譲り渡すことによって、自我の問題を解消しようとする構造がそこにあるのは紛れもない事実である。

 

別にこれが悪いと言いたいわけではない。

インフルエンサーをきっかけに世界が変わり、よりよく生きられるようになるのなら活用しない手はない。

どんなときにもすべきは理屈より実利だからだ。

ただ個人的な問題意識は、そのとき自我は自分の手元にあるのか、ということだ。

どこかのインフルエンサーに譲り渡してはいないだろうか。

 麻原彰晃にはそのようなジャンクとしての物語を、人々に(まさにそれを求める人々 に)気前良く、そして説得力をもって与えることができた。彼自身の世界認識がおそらくは、ほとんどジャンクによって成り立っていたからだ。それは粗暴で滑稽な物語だった。部外者から見ればまさに噴飯ものとしか言いようがない物語だ。しかし公正に言って、そこにはひとつだけたしかな一貫したことがある。それは「何かのために血にまみれて闘う攻撃的な物語だった」ということだ。

 そしてあなた(とりあえず二人称を使わせてもらっているが、もちろん私もそこに含まれている)にとってはどうだろう?あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか?あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか? 

人生の各々のフェーズで価値観は変化していく。

当然自律的なパワープロセスと社会システムの歪みもそれに伴い変化していく。

結局のところ、僕らは誰かの物語をリファレンスとしつつ、自分らの物語をつくりあげるしかないだ。

自らの意思で考え、選び、決めていくこと。

こうすること以外に自我と社会システムの歪みを解決する方法どこにもないのである。 

 

 

おしまい

 

参考